昭和40年11月21日 朝の御理解



 昨日、皆さんもご承知のように、福岡の秋永先生ところの長男の、丁度まる三ヶ月間修行させて頂きました。昨日が丁度その願いの満願の日でございました。三ヶ月間の信心を、これから帰りまして商売の上に、また家庭の生活の上に、現して行きたいと思います。付きまして、これで信心が済んだのではございませんから、帰りは最後の修行に、只今から歩いて帰りたいと思います。
 そして明日からは、しばらく朝の御祈念にお参りをしたいと思いますから、どうぞよろしく御願いを致しますというお届けを致しました。まあ中々若い方達がそういう熱気ですね、あの熱情を持ってあの色々な後々で考えたら、あの時分のいうなら荒修行というか表行というか、あげな修行は若いときにしか出来ん、という思い出になる事でございしょう。一週間の断食を致しますからその御礼にもう一週間断食しとったい。
 昨日丁度十一時五分でございました。秋永先生から電話が架かってまいりまして、それこそ感激いっぱいの声です。「親先生、只今おかげを頂きまして、徹が帰らせて頂きました」ち言うてから、その思わず私が「おめでとうございました」ち言うてから、言うた事です。大体がそのご承知のように、秋永先生は神ながら主義の人ですから、改めて明日でもお礼に出るか、またこの次にお礼に出たときにお礼を申し上げれば良いというような、ま、大体が気分の方なんですけどね。
 よっぽど嬉しかっただろうと思いますですねえ、親としてです。ほんとに子供がね、信心に打ち込むと言う事は親として、こんなに嬉しい有り難い事はなかろうと、思いますね。なんといってもやはり、ああいう風に家族のものが、信心になってまいりますという事はやはり、中心である秋永先生の信心であると思いますよ。前は京都に呉服屋の番頭に行っておりましたから帰ったら一時、椛目に修行といったわけでもなからなければ、こげな修行せんならんと言った訳でもないのですけれども。
 それこそ見習い聞き習いいつの間にか親の信心を、しかもその御承知の様に複雑といやあ大変複雑な家庭でございますから、ね。その複雑な家庭の中に信心を持って、やり貫かせて頂こうと言う、まあ若い者なり子供なりの考えが、先ず一つ信心と言う事になって、三ヶ月の修行になったわけでございます。昨日は菊栄会でございましたから、参りましたから直ぐ、高橋さんそれから杉山さん、文雄さん三人で参っておりましたら、丁度白木原の所で向こうからもう変な、風袋をした奴が来よるそうです。
 そんなり行っとりますもん奉仕着のまま。そしてあのお爺ちゃんの草履を借りてから、草履履きやったそうです。それで自動車で向こうからやってまいりますのに、あのこう、ライトに照らされて向こうは分かりません。けれどももう兎に角もう、兎に角もう肩を落としてきつそうにしておる。そうでしょう白木原まで十何時間歩いたんですから。丁度昨日ここを十一時に出ましたから、丁度十二時間かかりました。
 朝の十一時から、夜の十一時まで掛かった。それで電話が架かって参りましたのが、十一時五分でございました。けれどもですね、私はそう言う様な事の中から、教えられる事があると思うですねえ。あの人どんがですね、ああ、あれは徹じゃないかというわけですね、運転しながら。あら徹ぞと徹が帰ってきよると、歩いて帰って来よると。もう止めどんすんなと。止めたらあれが力落としどん…うっふっふ。黙って通り抜けろ。というて通り抜けたということです。
 そして直ぐ今徹が歩いて白木原の所まで来とるから、と言うて電話をかけたと言うてお届けがあった。それなんかも何とも言えんでしょうが。そういう中に信心がね育てられていく。先輩は先輩としてのそういう、心遣いが素晴らしいじゃないですか。もう大概のものならあそこで止めるとこでしょうね。そしてまあえらい元気付ける積りばってん、ね。そうしよったらもう後一時間か一時間半歩いたら大橋に着くのにです。ね。
 ここで、力落としてはならんから、黙ってここを通り抜けろと、まあ止めもせずに、やり過ごしといてから、直ぐ大橋に電話掛けたそうです「今、徹さんが白木原まで来とる。大変きつそうにしとったから、風呂でん沸かしてまっといてやってくれ」と言う様な電話だったらしいんです。それで着いたから、秋永先生が直ぐ「先生おかげ頂きました。徹が只今到着のおかげ頂きました」と言うてから、ね。
 それでその親に子供にですね、ああこうと言うて進めなくても親の信心ば見て来とりますから、ああいう中に家の父は信心があったからこそ、あれでやり切れたんだとこう言う複雑な家庭に、例えば信心無しには家はやっていけんのだと。是は先ず何と言うても信心を頂かにゃとその子供心にも感じる。今弟息子のほうが高校で御座いますけれども、兄ちゃんがそげな風に一生懸命だもんですから、僕も高校卒業したら椛目に暫く修行にやらせて頂くち言うちから、ま言っておるという訳ですけれども。
 そういう風にほんとにその、親が信心によって真実助かっていきよる姿というものをです。やっぱり見せたり聞かせたりしておかなければならんと、私は思うですね。私はここでお届けをさせて頂きましたら、直ぐにでも電話を掛けて、大橋の方に連絡を取ろうかと思いましたけれど、また家の方で人間心を使こうてもならんからとおもうて、止めました。そした、ただ今申します様に。
 いろんなタイミングをお繰り合わせ頂いている訳で御座いますから。その事を御願いさせて貰いよりましたら、頂きますことが、「表行、即心行」と頂きました。これがもう金光教の信心としては、何時も問題になるところでございます。金光様のご信心は、表行より心行せよと。と言うてその、おりますけれども、四神様などは、二代金光様などはですね、金光様御道の信心は、見やすう信心が出来る。ね。
 教祖の神様は、表行より心行をせよと仰いますから、表行というのは、形に表れる行ですね。表に表れる行です。よりも、心行せよと仰いますから、本当に楽でございます。ね。そしたら四神様が、言下に仰ったことは、表行の出来ぬものが、心行が出来るかと仰る。それよりももっと端的ですね、私が頂いておりますことは。表行、即心行だと。頂いて、なるほどそうだと私は思いますね。
 例えばです、しかたぁもなかその表行を修行しよるばってんその、何じゃんかんじゃん分からんような表行じゃつまらんです。もう俺が良かごつどん考えちから、修行しよるような表行では、ね。ただおかげ欲しさのです表行ぐらいの事では駄目です。昨日も長男が申しておりましたが、その表行というものがです、ね。どう言う様な内容を持った表行でなからなかればならんかと。いわば表行させてもらえば貰う程です。
 もうそれこそシラ真剣、生神金光大神様唱えなければやられんのです。ね。例えば一週間の断食でもしてみて御覧なさい。もうそれこそ心の底から金光様、金光様といわにゃおられん事があるです。例えばほんなら水行ひとつさせて頂くでもそうです。ね、ま一番簡単な修行で御座います、表行で御座いましょうけれども、やっぱり金光様、金光さまぁっと、こう気合を入れなければですね、掛かられるものじゃないです夏でも。
 朝三時、四時ごろ掛かっておられます。ですからその金光様を唱えさせて頂くその、喜びがです楽しいんです。例えばこれから福岡まで歩いて帰ろうと、これはもう大抵な一つの勇猛心がなければ、出来るこっじゃないですよ。ね。そうして神様の心を打ち向けたときです。もうただ一途に金光様以外にない、心の中にもない事で御座いますから、やはり表行即、表行はそのまま、心行だと言う事を思いますですねえ。
 それから表行、即心行と頂いて御神願に。丁度あのゴルフを致します、ね。ゴルフは玉を広い野っ原の何かこう玉の落ちる穴があって、そこへこう入れるわけなんですよ。それをですね、玉を入れずにこのくらいばっかりの小石です。石をこうやって中へ入れておるところを頂きました。御理解ですよねえ。いわゆる焦点というのは、この穴なんです。その穴にですいわば小さい石と言う事は、意思に通ずる。
 意思とは心。自分の心をです、もうそこへそこへ入れる。そこへ入れていこうと言う事に努めておると言う事なんです。自分のこの信心の焦点がです。ね。こうしてでも分からせて頂きたいと言った様な、そこへ焦点を置いて入れておるという事なんです。もっていっておる。成程心行だという事になるでしょうが、ね。表行、即心行と。信心が楽しゅうさして頂ける様になる。修行が楽しゅうさせて頂ける様になる。
 なぜ楽しいかというとです。この修行を終わらせて頂いたらです。こういう結果に。形の上の事じゃないです。その修行を完了したら、例えばこの頃から豊美が、横にならない修行を続けておりましたが、満願になっても喜びが湧いてこない。ですから今夜通しここで御祈念をし、もう一週間ぐらい続けておりますでしょうか。御祈念を続けてその、修行しよる。そこ修行させて頂いても喜びが湧かんなら、喜びの湧く所までです。
 これが信心はその喜びを頂くと言う事が楽しいのです。例えていうなら、私がなら朝の五時から、十二時までここで奉仕させて頂き、ね。私が最近もうあんなに良く、日に二升ぐらいは軽く飲むでしょうね。もうサイダーやらファンシーやら、お水やらそのあいだには、お茶まで頂きますから、もう非常に小便が近い。ね。けれども先ずほとんどこの、七時間の間だけは行かんですから。
 もちろんちった辛抱も致しますけれども、ね。例えばその私共は、何にも修行も出来ませんけれども、例えばそうした修行でもです。私の場合にはもう本当に楽しいです。終わらせて頂いてから、お広前に神様にお礼申し上げる時の、あの有難さというものはです。その有り難さがあるから、その七時間の修行が出来るのです。ところが最近はその七時間そのものが、この楽しいです。それはどんなもんでしょうかねえ。
 お百姓の方が田植えをなさる。田の草をとられる。肥料をまあ様々な八十八回手間がいるといいますから、お米になるまでに。ね。秋の実りというものが楽しめる。秋になれば採れるという見事収穫が出来るという、楽しみがあるからあれが出来るんです。けれども、やはりそこに打ち込ませて頂きますとです。田を植える事だってです、ね。田の手入れをする事だって、田の草を取る事だってです。
 ただ苦しいほんに百姓ちゃ苦しいもんだというのじゃなくて、ほんとに打ち込んだら、その事自体を楽しむ事が出来るのです。例えばほんなら、私がなら一時間ここに座らせて頂くと、ね。それこそ私が神饌室まででも立ちません。もう是は一つの私のここでの、私が奉仕をさせて頂く為にはこれは原則私の。もう立たんものだとこう決めておる、ね。というてそれだけの用件が有れば、立ちも致します。
 いよいよ行きたいときには便所にも立ちますけれども、大体において立ちません。それがやはり普通で有った時代もありますけれども、その事自体が楽しい。神様とここにこうやって打ち向こうておられる事が楽しい。同時にそれをほんなら十二時なら十二時まで、奉仕を終わらせて頂いたときの、また有り難さというものはまた格別です。その有り難さがなからなければです。ここの御用なんか出来るこっじゃあリません。
 一時間たってよう座られません。だぁれもなかつに、ただじっと座わっとるだけだし。しかもそれが毎日毎日というのは、やっぱり苦痛です。急行で参りますと、久留米からご本部につく間の時間があります。7時間ねその時間をです。楽しゅう汽車の中なんかでは退屈で退屈で、さあお弁当食べた上へ中で取るもんとって、中寝たりころだり雑談をしたりして、まあいわば楽しい座を作っていこうというわけですけども。
 私共はそうじゃない。その7時間の間、神様のほうへ向こうておるという事が楽しうて仕方んならん。信心は楽しゅうさせて頂かんならん、ね。しかもですこの修行終わったらです、こういう有り難さが頂けれるという、楽しみがあるからこそ、私はやっていけれるのである。ね。楽しさと有り難さというものは、いわばなからなければ、本当の信心は出来るものじゃない。頭はいらん何時までもやらなんじゃろ、ね。目指すところが違うから、そう言う事になって来るのです、ね。
 おかげばっかり目指して、信心を目指さんからそうなる。そういう信心ではです。私は、本当に自他共に助かって行けれる様な信心は産まれてこないと思う。どうでも一つ表行即心行だと、言う事になってみると、それぞれにです本気でなら、表行にでも特別の念願、特別の心眼でもあるならばです、楽しゅう出来るような表行しかもそれがです、この修行終わったら、神様から有り難いというものを許される様な表行をです、なされなければならんという事になりますよねえ。
 ちっとでも楽して貰いたい。楽な信心しておかげだけは、沢山頂きたいと言った様な信心ではですね。要領ばかりの信心ではです。人見せの信心ではです。そういう信心に触れる事は出来ない。またそういう信心では楽しい事もない。徹さんが、昨日、福岡まで歩いて帰らせて頂いたと言う事の中からです、ね。帰る途中に菊栄会の連中が、そん時自動車の中で話したこと。
 それで電話を架けたこと、秋永先生が到着のおかげを頂いたというて、お礼の電話を掛けて来た事、そう言う事の中から、今日私が申します様な事を感じた訳なんです。ね、信心とは有り難いもんだなと。いわゆる生き生きとした表行を伴いった信心は有り難いと。それは、心行に即繋がっておるからだと。しかもそのそういう信心の、雰囲気というのがです。勿論椛目を中心にしてございますけれどもです。ね、
 その信心を見守るのだ。やはりあの流石に、菊栄会の連中だと私思いました。それをやり過ごしといて、はぁ向こうから来よるとは徹ぞと。ここで自動車を止めたらいけん。やり過ごせと。もうそれこそもうあそこまで歩いておる時ですから、それはもう一番きついとこで御座いましたでしょう。もう足の上がらんごたる時だったでしょう。そん時は後ろから祈って、力をつけておるので御座います。
 そして家にはあそこで降りて、電話を架けておりますのです。そう言う様な心掛けとでも申しましょうかねえ。お互い信心を銘々進めていく上にです。そういうこう祈り合いのようなものが、お互いの中に交流しとらなければいけないと思いますね。そういう中に私自身が、なるほど表行をせんで、心行が出来るかと仰った四神様のその、御教えをもっと縮めたことですね。もう表行即心行だと。
 頂いて見りゃ頂いてみるほど、成程矢張り一丁心行させて貰わにやいけん。心行させて貰わにやならんと言った様な事で、本当の心行の出来る筈はないと、ね。成程一生懸命に表行でもさせて頂いておる時には、もうそのまま全体が、表行であると同時に心行であると言う様な、表行でなからなければいけんと思います。袴だけははいとるばってん裃つけとらん。裃だけは着ておるけれども袴はぬいどると言った様なです。
 つり合わない信心では駄目です。ね、どうぞほんなら、神様は裃付けた様な信心せよとこう仰るから、裃着けたような信心からしかです。いわゆるきちっとしたおかげは約束されない。生れて来ない。私はこれはもう本当に、そうだと確信致しますですね。どうぞ皆さん始めの間はです。やはり泣く泣くでもいいですから、ね。そこへ辛抱しぬかせて頂くとです。その修行その事がです。
 欲しいものもなくなりゃ思う事もなくなると言う様なです。ただ楽しゅうて有り難いという物だけしか頂けん様になって来るです。そういう風に有り難いとか楽しいとかに繋がる信心。有り難い楽しいと言う様なものがその、おおつり?のように頂ける様な信心。ね、お取次ぎを頂いて御願いをしたと。おかげを頂いたと。それでおかげ頂いて有り難かったけれども、その有り難かつだけでは長くは持てんでしょう。
 どうぞこれは椛目としても、今こそあん時にお互いが、あげな修行でもさせて頂いたと言う様な水行でもさせて頂く、一番良い機会にお互い恵まれております。昨日、野口さんがお参りして見えて前の日に、色々まあ私共から聞いただけでも不都合なことが、と思うような不行き届きだと思う様な事が、業者の上にあった。それの会議がありそれの、朝の御理解を頂いた秋山さんが、それを野口さんに話した。
 それで野口さんが、ああもう親先生ご心配じゃろ。親先生ご心配で御座いましょうとまあそれは、挨拶かも知らんけれども本当にそう。私はいっちょん心配致しませんです。もうこれは本当です。それで皆んなのです、信心のほうの御造営がです。出来るよしなともなれば、もうそれでもう本当に有り難いです。みんなだけでは有りません。私もその事によってです、ね、ただ進む事のため、進展することのため、ね。その事でありますならです。困ったことだとも思わなければすまんとも思わんです、ね。
 秋永先生が、本当にに十月で完了のが三月に、三月のが今の模様ならこら六月も、七月も、八月までも掛かるかも分からん。あんたおかげじゃない。なるほどほんと今、その事に掛かっていますから、仕事の方が手につかんのですといわれる。それの責任者の方たちは。けれどもあんた半年よりも、一年間そげな修行させて頂いた方が有り難いじゃないのち、私はその晩も申しました事でございます。
 どうでもお互いの信心の御造営が、ある意味合いにおいて、ここに成就するまではです。これは成就せんと、ね。ほら例えば私一人の信心の成就だけではいかん。だって私一人で立っている訳じゃないから。皆んながそこに思いを寄せておる自体がです。信心の造営が、何が無しに出来なければです。御造営は進展せん。ね、例えばこれがですそういう盛り上がりも熱意もないなりに、もし御成就になって御覧なさい。
 どういうものが出来るか。銘々の信心の御造営の期待を、そう言う様な様々なちょっとした事件。ちょっとした事件では可笑しいですけども、まあ不都合な事がです。で事前にこうやって分からせて頂ける。これは向こうをいう段じゃなかじゃん。こっちが一つしゃんとせにゃ。と言う様なこっちも仕事が出来るならば、これにこした事はない有り難い。お互いがです力を頂かにゃなりません。もう力を頂かにゃいけません。
 昨日私夕方から、あるちょっと一言が、今の話とは別な意味で、ちょっと心に掛かる問題がある。それでそれを御願いさせて頂いたら、(福島進)と頂いた。だから私は昨日は、進さんの事に関連があるかも知れんと思うたから、一番最後にお届けしとる。そして何の為に私が今思いよる事に対して、神様福島進と下さっただろうかと思うて、あの御祈念させて貰いよったらです。福の島へ進む為だという意味なんです。ね。
 前に進むためだと。前進する事のためだと。これが心配の事の様に見えとるけれども、それは事の一つひとつの、成就のための段階だと言うわけなんです。心が晴れ晴れじゃなくて、晴れ晴れするだけじゃなくて、その事に対して、お礼を申し上げなければおられませんと、今日はその事とたいけつ致しますのです。実際の上に、対決しなければならないことになっている。
 ですから私の心の中に、その問題がどう言う事になって参りましてもです。私の心の中に泳がせておく事がです。力を頂かにゃ出来る事じゃないでしょうが。その問題に私がつ一杯で対決して御覧なさい。夕べの御理解にも申しました、ね。昨日はもう家族中で相撲をとりよる。あんまりドンドン言わせるから、私が御祈念ばい、はよ止めんかち言うて、言いよったところが、あんまり面白そうじゃもんじゃけん、こっちも一緒にかたってから、子供たちと一緒に相撲とっ取るんです。
 ところがこっちが力入れたら負くる。こちらの力を利用して手でやられる。だからこちらが力だけは強いとじゃけですね。ゆとりを持って力を抜いてしもうとくとですね、もいわば向うの方とは、投げる事も掛ける事も出来ない。こちらが力を出さないもんじゃけん。力を頂くと言う事は、その力を出し切らんやったら大変だ。力を持っておるとゆとりが出来る。こうやって押さえときゃ良か。それで向こうの方はじっと疲れとる。それでただ押さえとる。力ばいれてからこうしよるとですね。
 その力を利用して向こうの方が、私が大きいなとに力を入れたら投げる。もう幹三郎なんかになると、完全に私よりか勝つ。私が一生懸命になる。力をなるほどだから先ず力を受けなければならない。しかもそん力の中にです。そのどういう問題でも泳がせれるところの、おかげを頂かなければいけない。その力を頂かせて頂くためにです。私共が楽しゅうです。有り難い事への、出て来る事を体験させて頂けれる様な修行。言うなら表行心行がです、ね。表行即心行である信心がです。
 本気ではまってなされていかなければなりません。はまってする事はきつい事。だけではなくてきつい事、けれどもその事が楽しゅうなるという信心。座っておるその事も楽しい。お百姓させて頂いておる。秋の実りのときだけが有り難いのじゃない。秋の実りを思うただけでも楽しい。というだけじゃなくて、仕事をさせて頂いておる、その事が楽しいという信心、ね。今朝もその、目が覚めた。また朝の御祈念にお参りせんならんというようなものじゃなくてです。目が覚めた。
 そん参って帰ってきたときのです。有り難さといったようなものをです、思ったら、パチッと目が覚めるようなね、おかげをいただかにゃいけん。ところがです、お参りをしてきても、そういう有り難いものに触れられないから、いわば、目が覚めた時に、また参らんならんという事になるのです、ね。お参りをさせて頂いて帰ったとき、お参りさせていただいて、御理解を頂くその一時がです、楽しい、有り難いと思うから。
 私も昨日は、そんな訳でございましたから、二時半でございました。私も今、この頃は、昼は、もう横になりません。それでもやっぱり、福岡の連中が一生懸命だもんですから、終わってまた降りてきてから、それで二時半でございます。それで、けさ、目覚ましのおかげ頂いて、一時間半あまりしか休んどりませんけれどもです。ね。ほんとうにその、すがすがしい目覚ましのおかげを頂いておる。
 それは、また、楽しいことに取り組んで行けれるという、その事があるから、目覚ましのおかげを頂くわけです。楽しいことがあるときにはです。やっぱり子供が、さあ、今日は、遠足ぞ、運動会ぞと言う時には、もう、いつもよりか早く目が覚めるようなもんです。でなかったら、信心を楽しいものにですね、有り難いものにと言う体験をともにお互いに楽しみという信心でなからなければです。
 もう、馬鹿らしいじゃないですか、折角させてもらうなら、ね。だから、そこまで行くためにはです。ある場合には、泣く泣く辛抱しいしいにというところを頂いて、楽しいというところまで分からせてもろうて、そして、それが有り難いに繋がっていくというような信心をさせて頂きたいですね。
   どうぞ。